おれは何というか「慎重な性格」なんだと思う。
一通り考えて、本当に大丈夫だ、と思ってから納得してから行動したい。
納得感とか、安心感を割と強く求めてしまう。
たぶんそれ故に人生哲学とか精神的な成長とか、そんな話が好きだ。
それはある意味性格であって、仕方ない部分もあるのかもしれない。
でも振り返ってみたら最近はその慎重さに逃げていたのかな、とも思う。
いつのまにか納得感を大事にしすぎて、自分の気持ちを大事にしようと思いすぎて
これは本当にやりたい事なのか、とか、これをやって損しないのか、とか
そんなことばかり考えすぎて、
自分の思考力とか理性を必要以上に信用しすぎていた。
しかしどんなに考えたところで理性や論理では
どうしようもできない領域というのがこの世にはある。
実際にやってみないと、とにもかくにもわからないものというのは
歴然とそこに存在している。
そこでどんなに理屈や理論をこねまわしても、
最後はやるかやらないかという部分は間違いなく存在している。
人生の意味、とか、努力とは何か、とかそんな「高尚な人生論」をどんなに考えたって
自分の人生はリアルな部分では進んでいかない。
そんな哲学を考える事に逃げたって、本当の意味で人生は良くならない。
心のどこかではずっとわかっていた事なのに、
その部分と向き合うことを逃げていた。
パレートの法則(2:8の法則)、というものがあるらしい。
結果の8割を司るような重要な部分は、全体の2割の部分である、というもので
結果を出す為にはその2割の部分に注力しよう、という考え方だ。
(そもそもはイタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートが発見した経済学の法則で、
今おれが使った様な文脈で使われるものは、本来ではないらしいが。)
この法則で言えばおれは
結果の出にくい8割にばかり時間を割いていたようなものだ。
それでは努力しているように見えるだけで
本当の意味で結果を出そうとしているわけではない。
逃げの努力、形だけの努力、だ。
今の時代、案外と「やってる風」に見せる事は簡単なのかもしれない。
楽にやる方法論とか、誰かが作ったテンプレとか
ネットで探せばいくらでも出てくる。
形を整えるのは比較的にやり易い時代なのかもしれない。
でもいくら形を整えても、最後にはふと空っぽの自分に気づいてしまう。
どんなに逃げようとも、自分には最終的に気づかれてしまう。
満たされない気持ち、その空虚さに。
自分の人生の8割を決める2割。
そこから逃げずに向き合うこと。
「慎重さ」に逃げた「やってる風」な努力をやめて、
本当の意味で人生を進めること。
そんなことを振り返った、1日の終わり。